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戊辰戦争看板


先回 其の7(11月21日)では、1300名の新政府軍が西街道を鬼怒川の戦場に進み
迎え撃つ大鳥圭介 指揮する会津・幕府連合軍500、山川大蔵ひきいる会津軍400
合計900名がいよいよ対峙(たいじ)する前夜という場面でありました。

11月21日から本日まで、ボーッとしていた訳ではありません。
この間『戊辰秘話 日光山麗の戦 田辺昇吉 著 板橋文化財保護協会出版』や
『下野の戊辰戦争 大獄浩良 著 下野新聞社出版』
『北関東・会津戊辰戦争 島遼伍 著  随想舎出版』 その他の文献を読み現場を確認し
なお、ブログの短い紙面に耐えうる様に工夫をしていたのでございます。

私の本業はホテル経営ですので、その方も一生懸命であります。
写真は近くが現場ですので、すぐ撮影出来ました。

慶応4年6月25、26日(新暦8月13、14日) 『藤原の戦い』が戦闘開始です。
『藤原』とは11月21日のブログにも記しましたが、ホテルのある地番(大昔からの)に
由来するものです。因みに当社の地番は藤原1番地1で由緒のある土地であるということが
お分かりいただけるでしょう。

さて、宇都宮戦争と二度にわたる今市攻防戦(これらの戦いのことは西街道に入る以前の
ことなので、あえて触れていない。これらに触れると鳥羽・伏見の戦い
(慶応4年 正月三日 1868年)までさかのぼることになるので他の資料でお楽しみ下さいませ)
は以後の戊辰戦争の帰趨(きすう)を示すことになります。

今市(現・日光市今市)攻略に失敗した、つまり東照宮に籠城したが板垣退助の言葉に従い
退去した会津・幕府軍は藤原方面(鬼怒川)に陣地を築き、会津西街道口の持久防御に移りました。

新政府軍は5月15日江戸 上野戦争 で彰義隊を壊滅させて、後顧の憂い
なく進軍して来た訳です。ほぼ1ヶ月後の6月25日 宇都宮藩と連携して
会津・幕府軍の本陣のある藤原口を攻めました。

佐賀隊は2手に別れ、一隊は小百(こびゃく)から、もう一隊は大渡から鬼怒川を渡河した。
宇都宮隊は鬼怒川左岸の船生(ふにゅう)から小佐越(こさごえ)にあった陣地を攻撃した。
その時の現場の兵力は新政府軍1100名 迎える会津・幕府軍は約400名であった。

大原(現在の東武ワールドスクウェアあたりから、東武鉄道鬼怒川温泉駅前あたり
までのこと。我が社の寮も入る)で陣地を構えた会津・幕府軍と交戦した。

船生村から山を越えて、大原陣地の背後に回った別部隊の働きや佐賀藩の
アームストロング砲が威力を発揮し、会津・幕府軍は藤原方面(当ホテルの方向)に
退却したが降り出した豪雨と日没で、この勝負 引き分けに終わりました。

ところで、会津西街道 鬼怒川温泉を中心にした戊辰戦争は
「其の11」で終了致します。


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