
明けて6月26日 新政府軍は鬼怒川の両岸から進撃を開始した。
対する会津・幕府軍はモウキ山が突き出た難所(現地ではおゝへずり という)を
通過したころ、天狗岩から大石を落とし退路を断ちます。
右岸では上滝まで(藤原町)兵を引かせ、敵を引きつけて叩くという戦術を駆使した。
写真のおゝへずりの城壁風のものは、後年 作られたものです。
その上に城があるとかではなく、塹壕をイメージしたもののようです。
地図のX印(古戦場)に追い込まれた親政府軍800名に照準を合わせ、一斉に砲撃しました。
大鳥圭介の策は効を奏し、このことにより新政府軍(官軍)にはおびただしい戦死者が出ました。
佐賀隊はアームストロング砲を据え付けて攻撃のチャンスを伺っていましたが、丘陵の為
目標が定まらず、しかも味方が入り混っていますから威嚇のめくら打ちだったと伝えられています。
背後の丸山からは、会津藩の山川隊が気勢を上げて下りてくる状況にはさみ打ちに
なることの不安から進退きわまり退陣を余儀なくされました。
アームストロング砲が分捕られるなど、新政府軍(官軍)は大販したのです。
宇都宮隊の城代家老の一族などのリーダーを失いました。
27日未明にかけて今市宿に逃げ帰った佐賀隊は、田植え帰りの百姓の様に衣服は
泥だらけ、素足や無刀、あるいは刀のない鞘だけという目も当てられぬ有様だったと
伝えられています。
アームストロング砲についてちょっと・・・。
アームストロング砲は(William George A) 1810〜1900
イギリスの技術者・企業家・水圧起重機・水力発電機 および砲身内に銅線をらせん状に
巻いたアームストロング砲を発明したとあります。
鳥羽・伏見の開戦のころは圧倒的な兵力としておそれられました。
砲丸投げの球位のものがドーンと飛んで来ます。しかし弾影が見えた瞬間
体をかわすことができたとも言われています。
新政府軍(官軍)の敗因は板垣退助の助言を守らなかったから と言われております。
板垣退助いわく『藤原口は攻撃至難の地形だから、当面は「専守防衛」で日光・今市を
確保し、白河口における我が軍の進撃を待ってから前進すべし』と忠告したが
それは守られなかった。
しかしこれで会津・幕府軍が勝利に近づいたかと云うと、決してそうではなかったのです。