↑↑ 仙岳院2月のブログに日光市のお住いの方から、書き込みがありました。
日光市藤原に生まれて、こゝで暮らしているがブログに書かれる地元の歴史が
知らないことが多々あり楽しんでいる といった内容でした。
これは張り切らなくてはイケないでしょう。
ということで調子に乗って 昨年10月5日謎と書いた東照宮のご神体のその後を
書きたいと思います。
日光に戊辰戦争の危機が迫りました。
ご神体は東照宮から持ち出され、栗山村に先ず移られました。
それから先はようとして、行方が知れなくなったと謎めいたまゝで終りましたが
そのあとのことが分りました。
実は7ヶ月間にわたって奥羽地方を動座したあげく、最後は東照宮に
還座(かんざ)しました。
慶応4年(1868)幕府軍が日光に逃げ込んだ翌日 東照宮別当大楽院貞侃
(べっとうだいらくいんていかん)はご神体と家康遺品の神宝を捧持(ほうじ)して
日光山を脱出した。
大雨の降る中、会津藩兵100名にまもられつゝ 六方沢(ろっぽうざわ)越えの
間道をつかって会津西街道に出ようとした。
ここまでが先回書いたところ。あとは時系列で書いてみましょう。

慶応4年(1868年)
4月26日 午前6時 御神体と家康遺品の神宝
東照宮別当大楽院貞侃(だいらくいんていかん)と
日光山脱出
閏 4月1日
六方沢を越え栗山郷日陰村(ひかげむら)(現 栗山)
経由 日向村を経て五十里(いかり)(現 藤原町)に入った
閏 4月2日
横川村
閏 4月3日
火玉峠を越え会津田島に入る
火玉峠(ひだま)はのち氷玉峠と改める
閏 4月5日
会津若松に達し御神体を会津城内東照宮に安置した
17日
会津藩主 松平容保(かたもり)が拝礼
8月23日 新政府軍 会津盆地に迫った為、御神体を米沢を経て
山形城下に
9月14日 山形 立石寺(りっしゃくじ)(山寺)に到着
10月8日 御神体は立石寺から仙台 仙岳院に移動
10月28日 日光に還座の為 移動
10月29日 日光に7ヶ月ぶりに還座
ただちに安座式が行われた。7ヶ月の旅が終る前日
大田原まで同行してきた大楽院貞侃はここで別れを告げ
行方をくらましました。
明治7年(1874)8月に死去 郷里 長野県上水内郡牟礼
(むれ)村の満得寺墓地にねむる
日光が幕府軍と新政府軍との戦場にならなかったのが板垣退助のおかげと
するならば、日光東照宮のご神体が無事現代にあるのは大楽院貞侃の
功績でしょう。
↑↑ 仙台東照宮