
日光江戸村で新しいイベントが披露された。
「吉野太夫 東下り」 と題する道中もので、太夫が京都から江戸に来るまでの
賑やかさと華やかなものだった。
今まで開催されていた花魁道中も続行するというので、観光客の皆様は
喜ぶことでしょうね。
太夫は最上位の遊女のことを言う。
花魁道中は江戸吉原で正月や8月1日、京都島原では4月1日などに遊女が
盛装して廓(くるわ)の中を練り歩いたことを言う・・・という様なことはどなたでも
分かっていることと思いますが・・・
吉原というところはどんなところだったのか浅田次郎の著書 「天切り松 闇がたり」
からちょっとご紹介しましょう。
浅草の北里(ほくり) 日本提の南に位置する吉原遊廊は、大正のそのころにも
大小二百七十 余軒の桜と、二千人の娼妓を擁していた。

廓は外界の日常から画然(かくぜん)と隔たった場所である。
幅一間の『おはぐろどぶ』で囲まれた南北 百五十間 東西 二百間に
及ぶ巨大な遊里の内側には、江戸の昔と少しも変らぬ時間が流れている。
見返り柳を左に折れて衣紋(えもん)坂を下ると、じきに鋼鉄の大門が見える。
大門からまっすぐ延びる仲之町の両側の軒に、そろいのちょうちんをかけつらねた
引手(ひきて)茶屋が立ち並んでいる。
まるで助六の舞台そのまゝだ。
どの建物も各階に石造りのベランダをめぐらし、ぐいと張り出した軒先に色とりどりの
ちょうちんを下げている。
普通の西洋建築の倍はありそうな高さの軒(のき)はそれぞれの建物の
意匠は異なっているが、どれを見ても外界にはありえぬ奇妙な形をしている。
仲之町の並木道に6本の街路が交叉し、そこから更に複雑な路地に岐(わか)れ
二百七十軒の遊廓は無数の櫓(やぐら)を備えた。
迷宮の様に、ぎっしりと時間と習俗の砦をきずき上げている。
吉原とはそういうところだった (以上)
今はそんな別世界はもちろんありません。
2000人の遊女達のほとんどは全国から生活苦にあえぐ家庭から女衒(ぜげん)の
手によって買われて集められた女性達です。
地方の方言を客に聞かせない為に「ありんす言葉」が生まれた という説もあります。
2000人の女性には、2000人の艱難辛苦(かんなんしんく)の物語りが
ひとりひとりにあったのでしょう。
コメントを投稿