「会津西街道を行く(其の3)」 「板垣退助の巻」  ◎我が社の前の道路がそれ!!

其の2では今市からスタートをしましたが、日光市に意外な人物の像があるので是非紹介を。
「板垣退助」であります。

日光ニ荒山神社は平成17年、8年間の修復工事を終え日光山の表玄関として
朱塗の姿を再び現わした。その神橋のすぐ手前にあるのが板垣退助の銅像であります。

私には意外に思いましたが、皆様はいかがですか?

「板垣死すとも自由は死なず」 の板垣退助がナゼ日光の表玄関に鎮座なさっているのか。

話はこうです。1868年(慶応4年)戊辰(ぼしん)戦争が始まります。
この年の干支(えと)つちのえたつだったことからこの名があります。
維新政府軍と旧幕府軍との間に16ヶ月余りにわたって戦われた内戦が戊辰戦争です。

慶応4年1月3日の鳥羽、伏見の戦いに勝利した薩長両藩を中心とした政府軍は
四月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府軍を
討滅し、戦闘の舞台は千葉県流山へ移ります。
ここで新撰組局長 近藤勇も捕えられ板橋送りになり処刑され相果てます。37才でした。

戦闘はいよいよ下野国(しもつけのくに)我が栃木県へと移ってまいります。

政府軍、東山道軍参謀、土佐大隊司令の板垣退助は幕府軍がこもる宇都宮城を
二度にわたる総攻撃で慶応4年4月 陥落させました。

その宇都宮戦の敗残兵 約2000名を引き連れた大鳥圭介は「日光東照宮」に篭城します。

板垣退助は再三日光に篭城(ろうじょう)する会津幕府軍の撤退をうながすべく
説得工作をします。

大鳥圭介はもともと徳川慶喜と一緒に京都から江戸へ帰ったあと、日光山内の南照院に
隠れていた旧幕府軍 筆頭老中、板倉勝静に会って「殿を首領(しゅりょう)とし
日光東照宮を護持し、関八州(私のブログ平成19年6月18日で前述)に激(げき)を飛ばしたい」
と申し入れるのです。

しかし、もともと戦さが嫌いだった板倉勝静は撤退の工作にのりかゝっていたので
「いたずらに兵を動かし神君家康の廟前(びょうぜん)を血で汚すことは忠誠とは言えまい。
すみやかに日光を退去せよ」と逆に大鳥圭介を説得したのです。

ところが、その日の朝早く、神君家康の御神体は別当大楽院貞侃(ていかん)と言う者の
指図で六方沢(ろっぽうざわ)を越え栗山村野門(くりやまむら のかど)に移されたと
伝えられています。

この栗山村からは当ホテルの社員が通って来ます。
つまり通勤出来る距離なのです。歴史が身近ですねェ。

日光東照宮は板垣退助のおかげで戦火をのがれることが出来たという訳です。

その功績をたたえて顕彰したものが、写真の板垣退助像であります。
神橋(しんきょう)の手前に堂々と鎮座しておりますよ。
しかも近年は世界遺産にも指定されました。
日光なくして鬼怒川温泉もなかったろう思いますね。

板垣退助
                 板垣退助


一方 別当大楽院定侃(ていかん)の指図で六方沢(ろっぽうざわ)
越えをした神君家康公の御神体は栗山野門に移され、写真の様な立派な
祠(ほこら)におさまって現在もあります。

この写真は経理の女子社員のお父さんが娘・孫を連れて撮ってきてくれたものです。

栗山東照宮

祠のある野門はいわゆる観光スポットではありません。
車一台がやっと通れる山道を行きますので、行くことはおすゝめできませんねェ。

次回は「栗山東照宮」という不思議なところをご紹介します。
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