政府軍、東山道軍参謀、土佐大隊司令の板垣退助は幕府軍がこもる宇都宮城を
二度にわたる総攻撃で慶応4年4月 陥落させました。
その宇都宮戦の敗残兵 約2000名を引き連れた大鳥圭介は「日光東照宮」に篭城します。
板垣退助は再三日光に篭城(ろうじょう)する会津幕府軍の撤退をうながすべく
説得工作をします。
大鳥圭介はもともと徳川慶喜と一緒に京都から江戸へ帰ったあと、日光山内の南照院に
隠れていた旧幕府軍 筆頭老中、板倉勝静に会って「殿を首領(しゅりょう)とし
日光東照宮を護持し、関八州(私のブログ6月18日で前述)に激(げき)を飛ばしたい」
と申し入れるのです。
しかし、もともと戦さが嫌いだった板倉勝静は撤退の工作にのりかゝっていたので
「いたずらに兵を動かし神君家康の廟前(びょうぜん)を血で汚すことは忠誠とは言えまい。
すみやかに日光を退去せよ」と逆に大鳥圭介を説得したのです。
ところが、その日の朝早く、神君家康の御神体は別当大楽院貞侃(ていかん)と言う者の
指図で六方沢(ろっぽうざわ)を越え栗山村野門(くりやまむら のかど)に移されたと
伝えられています。
この栗山村からは当ホテルの社員が通って来ます。
つまり通勤出来る距離なのです。歴史が身近ですねェ。
日光東照宮は板垣退助のおかげで戦火をのがれることが出来たという訳です。
その功績をたたえて顕彰したものが、写真の板垣退助像であります。
神橋(しんきょう)の手前に堂々と鎮座しておりますよ。
しかも近年は世界遺産にも指定されました。
日光なくして鬼怒川温泉もなかったろう思いますね。
↑↑ 板垣退助一方 別当大楽院定侃(ていかん)の指図で六方沢(ろっぽうざわ)
越えをした神君家康公の御神体は栗山野門に移され、写真の様な立派な
祠(ほこら)におさまって現在もあります。
この写真は経理の女子社員のお父さんが娘・孫を連れて撮ってきてくれたものです。

祠のある野門はいわゆる観光スポットではありません。
車一台がやっと通れる山道を行きますので、行くことはおすゝめできませんねェ。
今日はここまで!
次回は「栗山東照宮」という不思議なところをご紹介します。