≪御神体の謎≫
栗山村野門(のかど)に移された神君家康公の御神体はその後
野門の人々によって大事に守られています。
栗山村は平成18年の日光市と周辺市の合併前は日本で一番広い面積を持つ『村』であった。
人口は2000人位(当社々員の家族を含む)旧住所は栃木県塩谷郡栗山村といった。
そして「ご案内」板(写真)には下記の言葉があります。
【栗山東照宮】
平家落人の伝説が語り継がれる栗山村で「家康の里」を名乗る
ここ野門集落は、徳川三代将軍「家光公」の時代に「野門村」として
日光御神領に編入された。
慶応四年(一八六七年)に起ったいわゆる戊辰戦争の折には会津方の兵士として
集落の働き手が徴用され日光と野門村とを隔てる
富士見峠近くの若狭河原の戦いに二名の死傷者を出している。
混乱していたこの時期、会津方は日光東照宮境内に数ある宿坊の中でも由緒ある宿坊に
祀ってあったと思われる「男体山三社神体」と「徳川家康公の御神体」を密かに捧持し
富士見峠を越えて僻遠の地野門村に住む「小栗久右衛門」に「肥後守」(会津城主松平容保)の
命による左記のお墨付きとともに象牙の白笏を授けて「守護職」を命じた。
この事実を広く世に伝えんと昭和四十五年十月地元奉賛会が中心となり「栗山東照宮」を建立。
一般崇敬者の拝礼の対象としたものであります。
記
戊辰元年 八月
文言の最後に戊辰元年8月とあります。

しかしこれが事変の終りだとしたら御神体は今だに野門(のかど)に
在るまゝということになるのですよ。
栗山村在住の我が社の社員の家族にその後のことを近所で聞いて
もらいましたが、御神体を日光東照宮にお返した記録もないし
行事もないとのこと。不思議ですねェ。
祠の中に御神体はあるのでしょうか・・・ないのでしょうか。
今日はここまで!