↑↑函館五稜郭大鳥圭介の巻(1833〜1911)播磨(はりま) 現在の兵庫県の出身
板垣退助ほどのスターではなかったが、戊辰戦争(ぼしん)を語る時
忘れてはならない人がおります。
板垣退助の総攻撃を受け日光東照宮をあとにした販残兵2000名を率いた
大鳥圭介の人生はその後、どの様なものだったのか。
大鳥圭介の妹のひ孫にあたる福本龍(ふくもとりゅう)という人の著した
「われ徒死せず」から引用しよう。
徒死というのは「むだ死に」という意味。
幕末、北海道函館五稜郭(ごりょうかく)の戦いで敗れ、獄につながれながらも
その後、明治新政府に勤めることになった。
「忠臣(ちゅうしん)二君(にくん)に仕えず」という当時の美徳に
照らせば出処進退を誤った人ということだろう。
新政府によって罪を赦(ゆる)された大鳥圭介は明治5年〜6年に
かけて英国・米国の『産業事情の視察』を命じられる。
『産業事情視察』とは、どの様なものだったのか。
炭鉱・製鉄所・製紙 果ては製靴工場まで視察。
その工程や仕組みをスケッチを交え、感想とともに詳しく書きつづっている。
帰国後、工部省(現在の通商産業省)に勤務。
日本の近代産業確立に大きな功績を残した。
「われ徒死せず」が五稜郭以降の圭介の哲学であったという。
もし函館で腹を切っていたら近代日本は偉大な推進役を失っていただろう。
後に清国、朝鮮公使、枢密院(すうみついん)顧問官等を歴任した。
多くの立派な人々が当ホテルのある土地を舞台に活躍し、そして
過ぎていったのかと思うと万感の思いがしますね。
紅葉が見頃です。